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TVA批評 CRITICISM 2024.04.16

スキップできないエンディングへ ~ TVアニメーション『恋風』のエンディング・アニメーション批評 ~

原文は韓国語であり、本翻訳はChatGPTによるものです。

令和時代の日本アニメーションは、その構成がかなり定型化された。要するに、1分30秒のオープニングとエンディング・アニメーションがなかったり、本編が二つのパートに分かれていなかったりすることは、今ではめったに起こらない。典型からの逸脱、すなわちいくつかの話でオープニングまたはエンディングを省略することさえ、ひとつの常套句になった。同時に、オープニング、エンディング・アニメーションに登場する具体的なイメージもまたそうだ、とよく思われている。YouTubeなどで「アニメOPあるある」あるいは「anime openings be like」などを検索すれば、そのようなイメージをパロディ化した映像を容易に見つけられる。言ってみれば、日本アニメーションの視聴者はそのオープニング/エンディングを「ありきたりなもの」、すなわちスキップしても構わない映像として扱う。しかし同時に、日本アニメーションのオープニングとエンディングは明らかに ― 偉大なアニメーターたちが集まる ― アニメーション実験の場である。幾重にも重なるまったく無関係なイメージの自由な重なりや、幾何学的図形の運動によって描かれるリズムなど、つまりいわゆる抽象アニメーションは、日本アニメーションの世界で特別な位置を占めるまさにその場所でのみ、描かれる名分を得る。その特別な位置とは、アニメーションと視覚デザイン、ひとつの独立したミュージックビデオとシリーズに従属したオープニング/エンディングのあいだのどこかである。

https://youtu.be/TR3ma_60-m4

『STEINS;GATE』オープニング・アニメーション。意図的に幾重にも多重露光されたイメージのあいだを素早く行き来する。

https://youtu.be/_AVvkDDFD34

『ひだまりスケッチ』エンディング・アニメーション。歌のリズムに合わせて幾何学的図形が出現し、運動し、視覚的な韻律を作る。このほかにも、素早く運動する背景層のイメージと静止したキャラクターを対比させて回転する空間を作り、ビットマップ画像のジャギーを再現した鳥の輪郭によって、まるで対象がより拡大されているかのような感覚を与える。

日本アニメーションのオープニング/エンディングは、一方では常套的に見えるイメージの集合という局面として、他方ではアニメーション実験の場という局面として私たちに近づいてくる。しかし、なぜ絶えざる実験にもかかわらず、オープニング/エンディング・アニメーションは視聴者に冷遇されるのか。時間節約のために倍速でアニメーションを見る者を批判する人々でさえ、なぜ1分30秒のオープニング/エンディング・アニメーションをスキップするのか。

この問題に答えるために、オープニング/エンディング・アニメーションがアニメーション・シリーズの中でどのような役割を担ってきたのかを類比してみる。そしてその類比を足場に、『恋風』のエンディング・アニメーションがどのような意味で「スキップできないエンディング」になりえたのか、またそれがどのようにエンディング一般を「スキップできないもの」へ反転させるのかを論じることが、私たちの目標である。だから、オープニング/エンディングの実態調査を通じて、映像と視聴者のどちらか一方が悪いと説教することはしない。

「時間の額縁」としてのオープニング/エンディング・アニメーション

先に述べた二つの対立する局面以外にも、オープニング/エンディング・アニメーションは、それがTVアニメーションのオープニングとエンディングであるという点で、実用的な目的を持つ。むしろこの機能こそが、オープニング/エンディング・アニメーションの根源的な物性であるだろう。すなわち、テレビを見る視聴者たちにアニメーションがまもなく始まることを知らせること、あるいはアニメーションがたった今終わったので安心してチャンネルを変えてよいことを知らせることである。したがってオープニングとは、テレビチャンネルをさまよう人々の足を止めること、急いでテレビをつけた人々に90秒の余裕を与えること、散らばった視線をひとつの場所へ集中させることである。反対にエンディングとは、視線をつかんでいた手を開き、彼らが散っていくようにすることである。

しかしその反対側では、オープニングは広告の雨が止んでアニメーションが今始まったことを、エンディングはアニメーションがもうすぐ終わり広告の中へ入っていくことを知らせる。要するに、オープニング/エンディングは広告、画面内の断片的情報、前話および次話ではなく、そのアニメーションのまさにその話に属しているが、同時にそのアニメーション内部では本編の外へ追い出され、本編の始まりと終わりを通知する信号へ転落してしまう。

アニメーションの本編から否定され、その外部の広告からも否定されるオープニング/エンディングは、むしろひとつの額縁である。とりわけ先に見たように、オープニング/エンディングが時間と同じ形の非対称性を持つという意味では、時間の額縁である。額縁は「作品でも作品の外でもなく、内でも外でもなく、上でも下でもな」い1。すなわち額縁は ― それが見えようと見えまいと ― 外部の壁に対しては作品内部の要素であり、その中の絵に対してはその外部である。同時に額縁はひとつのフレームとして、それが包んでいる絵の領域を限定する。額縁こそが絵画の周囲で、その絵画を数的にひとつと呼べるようにするひとつの決定を作る。絵画ではなく額縁が絵画の境界を引くとき、その絵画それ自体の境界はそこにない。額縁との関係がないとき、絵画はその絵画として限定されえない。したがって額縁が絵を必要とするのではなく、むしろ絵が自ら額縁を必要とする。『ひだまりスケッチ×365』の第4話、第6話、第9話で ― 時間的に分離している ― A、Bパートのあいだにアイキャッチの代わりにエンディングとオープニングが追加で挿入されたのも、そのような文脈においてである。ここでエンディングとオープニングは各パートの境界を設定する記号である。ある意味でモンタージュと呼びうるAパートとBパートの接続を切断し、各パートを独立したひとつの「話」にする記号である。

だがこのとき、絵画は額縁の方向へ伸びている。絵画が自分の境界を自ら限定できず額縁を要請するとき、額縁は絵を人為的にひとつの対象として決定すると同時に、絵とともに分離できないひとつのものになる。したがって額縁の内側にある絵画の境界は、その絵画が額縁に絵へ参加することを要求しながら散らばる。あるいは、額縁が指し示す絵画の輪郭線が、まさにその額縁が絵画を補いながら、額縁とともに絵の中へ吸い込まれる。いまや額縁は、絵の中で絵画が描けなかったものを描くことによって、その絵画の新しい意味を作り出す。「延長された意味作用の領域」として2。最初のスキップできないオープニング/エンディングは、この意味で可能になるだろう。

予備作業 ─ TVアニメーション『恋風』について

『恋風』のエンディング・アニメーションについて論じる前に、在野批評家・異邦人の『恋風』批評、「アニメ恋風と漫画恋風との比較」をまず検討する3。彼はそれ以外にも、漫画『恋風』について5本のアマチュア的だが丹念な文章を書いた。もしかすると、この企画全体が異邦人に対するメタ批評として読まれるかもしれない。

異邦人にとって漫画『恋風』は象徴記号に満ちている。異邦人にとって桜は『恋風』の始まりと終わり、そのあいだの成長であり、耕四郎が思いを告白した場所であり、耕四郎と七夏の癒やしの場所である。このすべての桜の中心には、いつも七夏がいる。彼にとって七夏は桜、すなわち超越的な無欠さであり、純粋な女性性である。異邦人にとって耕四郎は、桜としての七夏に出会い、真実で切ない思いを思い浮かべる人物である。したがって彼にとって桜は、『恋風』が持つ意味の中心にならざるをえない。『恋風』に登場する三度の桜が咲く春は、耕四郎の心の変化ないし発達である。異邦人は三度の春がそれぞれ、単純な認識への始まり、別れと激しい感情、永遠の恋慕の誓いという発達段階、すなわち始まりと終わり、そして完成を意味すると主張する。完成へ向かう二度目の夏、耕四郎と七夏の縁結び神社と日の昇る夏の海への旅こそ、異邦人にとっては二人の心が来世にまで続くことを暗示する装置になる。彼にとって『恋風』は、桜、七夏との関係の中で癒やされ ― ニーチェ的意味で ― 成長する男性、超越的で永遠な二人の心が完成されていく過程を描いた漫画なのである4

しかし異邦人のアニメーション『恋風』についての文章、「アニメ恋風と漫画恋風との比較」において、彼は少なくとも二つの方向で素朴だった。まず異邦人は、アニメーション『恋風』を漫画『恋風』と比較する方式で読むことを選んだ。異邦人がそうであったように、アニメーションへの評価は、多くの場合アニメーションへ向かわない。評価はむしろ、ある特権的位置の「原作」へ向かう。そこではアニメーションは原作を「超越」したり、あるいは「破壊」したりするが、そこにはアニメーションのための解釈学はない。要するに、アニメーションが原作を「超越」したにせよ「破壊」したにせよ、それがすでに明らかになった原作の美的な陳述から補充された、あるいは脱出したという主張であるかぎり、アニメーション・テクストのための新しい意味が作られることはないだろう。このときアニメーションは、ただ原作に付け加えられた補充になる。とりわけ原作の要素がアニメーションから抜け落ちたとき ― たとえばゴッホの絵に描かれた一足の靴が、実は「それぞれ異なる対をもつ二つの靴かもしれず、二つの同じ側の靴かもしれず、片方の靴とその幽霊かもしれな」いほど5、その要素がいつでもひとつの象徴でありうるので ― 事態はアニメーションを(その象徴が)欠けたもの、あるいは意味を失ったもの、したがって未完成なものとして残す。したがって、いわゆる原作中心主義の下では、アニメーションは、それがいつでも原作の意味を再現できないという点で、新しい思考を生み出せないだけでなく、原作外部の額縁になる。あずまきよひこが自身のブログに「…なぜアニメ化しないのかを説明するのは、なんか漫画はアニメの『原作』という考えを認めるみたいで、漫画家としてはしたくありませんが」と書いたとき6、彼はむしろ原作中心主義に不満を表したのである。漫画がアニメーションの原作になるとき、すなわち漫画が「原作」という名を持つときとは、その漫画を中心にアニメーションを読むときだからである。

したがって、異邦人が三度の桜と春を通じてのみ耕四郎が完成されると考えたとき、そしてそれが『恋風』の意味する真理だと独断したとき、彼はすでにアニメーションが『恋風』に加えるいかなる変化も容認できなくなっていた。したがって七夏を桜の代わりに泥水で隠喩し、二度目の夏の神社旅行と日の出を削除したアニメーション『恋風』は、異邦人にとって漫画『恋風』から純粋さと超越性を去勢したものとして理解されるほかなかった。異邦人がアニメーション『恋風』第8話の耕四郎が七夏の「泥水を飲まずに捨てる」と書いたのは、彼にとって泥水が余計なものにすぎない原作との差異を象徴したものだからである。したがって泥水は捨てられなければならなかった。幼い頃の耕四郎が泥水を捨てず、捨てることを何度も遅延させる場面と、家へ帰りながらこの記憶を面白そうに思い浮かべる耕四郎の姿が交差するシークエンスは、忘れられたまま。

もうひとつの方向は、丹念だった彼がアニメーションとしての『恋風』を読むときには ― もっともアニメーション的な要素である ― オープニングとエンディングをスキップすることにした点にある。

スキップできないエンディングとしての『恋風』エンディング・アニメーション

『恋風』のエンディング・アニメーション7は簡潔である。『恋風』を見始め、第1話が終わるころに迎える最初のエンディングは、戸惑わしくもある。砂浜をのんびり歩く三人の輪郭が映され、波が打ち寄せ、……それで終わりだ。三人が歩く海がいつ、どこなのか、さらには私たちは三人が誰なのかすらわからない。

https://youtu.be/kxnG9dawYcg

『恋風』エンディング・アニメーション。第1話から第8話までのエンディングは、三人が海辺を歩く場面がそのすべてである。

彼らはひとつの層の上を歩いている。背後から照らす太陽(日の出? あるいは日没?)の逆光が、彼らの厚みを取り除く。いや、彼らが本当に前へ向かって歩いているのかも疑わしい。ほんの少し左へ向かった画面の外方向へ打ち出される波だけが、彼らが前へ向かって歩いていることを指示する。実際には、カメラだけが ― アニメーションにもカメラと呼ぶべきものがあるなら ― 彼らが歩く方向の前方へ少しずつ向かっているだけである。一方では、意図的に設計された色彩と雲と波の特異な形が、本編とエンディングを分離しているようにも見える。『恋風』のエンディングは、匿名の時空間、匿名の人物たち、曖昧な方向性によって構成され、分離された空っぽのエンディングである。

ここで『恋風』のエンディング・アニメーションは、まるで『恋風』と対立対を構成するように作動する。『恋風』は、良くも悪くも問題的であり……それでもなお実験的ではない古典的な方式で構成されているように見える。耕四郎と七夏が初めて出会う場面で、『恋風』は七夏と耕四郎のクロースアップを交互に配置しながらも、この切断を貫く方向に桜を挿入した。七夏の印象は桜を経由し、耕四郎がひとり残されたときまで、耕四郎の視線が指す画面の反対側を想像させる。漫画『恋風』であれアニメーション『恋風』であれ、読者はその中に隠喩の印象を発見するだろうし、この発見自体が『恋風』の中に内在している。この点で異邦人は『恋風』の誠実な読者であり、彼が明らかにした『恋風』の隠喩は直喩でもある。しかしアニメーション『恋風』は、先に論じたように、エンディングの方向へ延長されている。同時に、空っぽのエンディングとしての『恋風』エンディング・アニメーションは、このような比喩の発見を停止させ、1分30秒のあいだ遅延させる。延長された意味作用の領域が空っぽにされており、したがって象徴で満ちた『恋風』のどこかに穴が開いたことになる。エンディングのひとりの主人公としての波 ― そこで見えるものは波と人物だけである ― とともに、『恋風』のすべての記号が砕けるように。

これが漫画とアニメーション『恋風』に対して平行に作動する点に注目しよう。そうすると、『恋風』のエンディング・アニメーションは原作中心主義をそれ自体として止揚するものでもある。原作中心主義の下でアニメーション『恋風』が原作の補充になったとき、『恋風』のエンディングは原作から続く意味作用を停止させる。そしてそこに1分30秒の空白というウイルスを挿入する。このときアニメーション『恋風』が、反対に原作の意味を変化させる。『恋風』に加えられる原作中心主義は、この地点で自らが自分を否定することになる。

しかし『恋風』はここで止まらない。七夏が耕四郎に愛を告白すると、『恋風』のエンディング・アニメーションが変化する。砂のシャベルが流されていく海のある一方、そのシャベルで作ったはずの砂の城は痕跡さえ残っていない、短いクロースアップが付け加えられる。そこは砂の城とシャベルが完全に新しい事物であるという点で海の別の場所であり、つまりこの挿入はいくらか無作為な挿入のように見える。しかし二つの場面の接続が保証する海の同一性、付け加えられた場面でクロースアップされた砂の城の痕跡は、ひとつの小さな物語を間接的に提示する。エンディングの三人、いや四人は ― 『恋風』とそのエンディングの緊密な関係は、エンディングの人物たちが『恋風』の主人公たちであることを要請する。エンディングが変化する一話前、耕四郎の回想はエンディングに幼い耕四郎と七夏がいることを明らかにしている。同時に第1話から絶えず反復されたエンディングが、反対にそのフラッシュバックに正当性を与える。そのエンディングにはいかなる標識も提示されないが、『恋風』の変化がその人物たちが誰なのかを暗示する。― 海で一緒に砂の城を作って遊び、日が暮れて帰る途中である。残された砂の城は、シャベルとともに波にさらわれ崩れる。

『恋風』第9話から最終話までのエンディング・アニメーションの最後のカットのうち一場面。

七夏の告白は、耕四郎の近親間恋愛に対する意識的な反動によって失敗に終わる。七夏は部屋から飛び出そうとするが、その短い間に耕四郎が七夏の腕をつかみ、抱きしめる。七夏は耕四郎を振り払い、部屋を去る。二人はこのとき、確かにつながろうとする心を伝えた。しかしこの心は、伝わるべき相手に届かない。そしてエンディングが始まる。そして……。したがって『恋風』は、この届かなかった告白と砂の城の痕跡のあいだに奇妙な接続を作る。

次の話で、早朝に家を出た七夏に耕四郎は会えない。届かなかった七夏を-抱きしめることを廃棄するために、耕四郎は家を出ようと決心する。そして画面は、失敗した告白と疑わしい抱擁のあいだで悩む七夏を映し、再び家を探す耕四郎を、家に帰りたくなくて友人の家へ遊びに行った七夏を順に見せる。しばらくして家に戻った耕四郎が父に家を出ると言おうとすると、電話がかかってくる。七夏からかかってきたこの電話で、耕四郎と七夏は、その届かなかった告白には何らかの配送ミスがあったことを互いに悟る。七夏は予定より早く家へ帰る。しかし耕四郎には新しい家の契約が固定されている。二人は一緒にいることになるが、その届かなかった告白が再び届くことはない。だが「ずっと言えなかったことがあった。覚えてる? 観覧車に乗ったときのこと。(…)あのとき俺、本当に嬉しかったんだ。だからこのままだと俺……」耕四郎と七夏は手をつなぐ。はっきりと、つながった電話、つながった手によって、届かなかった告白は変化している。しかし兄妹に対する二人の異なる定義8によって、告白の成功は遅延され、配送エラーは反復される。

朝、七夏はひとりで目を覚ます。エンディングは荷物をまとめてドアを開ける耕四郎、そして降り注ぐ日差しと絡まりながら始まる。エンディングは先のものとは異なる砂の城の痕跡から始まる。砂の城はまだある程度の形を残しており、砂のシャベルは砂に刺さっている。相変わらず波は砂の城を削り落とす。完全な砂の城により近づいているように見えるが、なお砂の城ではないもの。『恋風』は、届かなかった告白たちと砂の城の痕跡たちを、巧妙に接続し続けている。

『恋風』第10話から最終話までのエンディング・アニメーションの最後のカットのうち一場面。

同時にこのエンディングは、これまで明示的には隠蔽されていたエンディングの人物たちを直接的に明らかにする。幼い耕四郎と母、そして七夏を抱いた父。明らかになったこの事実は、それほど驚くべきものではなくなっていたが、一方ではなお明らかになっていないものが残っている。四人は本当に、とりわけ母-耕四郎と父-七夏は、一緒にいるのだろうか。一緒に歩いていく三人を見せるエンディングの二番目のカットで、彼らは相変わらず匿名的である。反対に三番目から六番目のカットで、彼らは明示的であるとはいえ、一緒にはいない。彼らはただ視線によってのみつながっている。むしろエンディングは、離婚した母と父、そして耕四郎と七夏をそれぞれ対立対として置く。

『恋風』第10話から最終話までのエンディングの三番目のカットから六番目のカットまでの場面たち9

エンディングは対立を解消しないまま、最初の砂の城の痕跡を再び映す。耕四郎と七夏は、相変わらず互いに届かない。先に見た巧妙な接続は、今ではエンディングの奥深くに内在していることになった。

耕四郎が分家し、七夏は耕四郎の家の前にこっそり手編みのセーターを置いていく。これを偶然見た耕四郎が職場の同僚である千鳥と一緒に隠れようとしたため、耕四郎は千鳥に七夏への思いを知られる。千鳥は耕四郎を軽蔑し、耕四郎は部屋に閉じこもって廃人になる。どうにもできない耕四郎はティッシュを買いに出ようとして、オレンジを渡すためにこっそり家を訪ねてきた七夏と出会う。そして……いろいろあって……二人は一夜を過ごし(エンディング)、母の家へ旅行に行き、立入禁止の埠頭で心中を考えたりもする……。一方で七夏の友人たちは、七夏に彼氏ができたことを直感するが、「なんだか怖」かったので確認をやめる。会社を辞めた耕四郎は、佐伯健造、耕四郎、小日向七夏と書かれた表札を見つめながら謝る。そして何より、七夏と耕四郎にとって特別な意味を持つ遊園地が父の会社によってなくなることを知らせる。

閉園の告知が貼られた遊園地に、耕四郎と七夏は再び戻る。遊園地で耕四郎と七夏は砂浜で遊んで泥だらけになり、七夏が洗いに行くと、ある女の子が耕四郎に桜の落ちた泥水を差し出す。耕四郎は礼を言って飲む。確かにこのとき、幼い頃の耕四郎が飲むことを何度も遅延させていた七夏の泥水が、耕四郎に届いた。耕四郎と七夏は身体を交わした恋人同士になり、遅延されていた告白の成功は果たされた。届かなかった告白は互いに到着したように見える。しかし『恋風』は続く。

閉じた夜の遊園地で、耕四郎と七夏は止まった観覧車にもう一度乗ってみる。観覧車が作動することはない。しかし二人が祈ったとき、観覧車はただ一度だけ動く。夜が明け、遊園地が開くと、二人は遊園地を出る。いつか消えてしまう遊園地の木に相合傘を描き、毎年春にまた来ようと約束する。前を歩く七夏の後ろ姿を見ながら、耕四郎は「好きだ」と小さく言う。彼のはにかんだ告白が七夏に届くことはない。二人の永遠の未来へ向かう約束が守られることはない。すると『恋風』の最後のエンディングが始まる。

これまでエンディングが熱中してきた砂の城の痕跡は、七夏の告白と耕四郎の答えが互いに届かなかったあのときから、絶えず滑ってきた。『恋風』は終わりに近づくたびに、砂の城の痕跡を呼び出し続けてきた。だからといって痕跡が、失敗した告白のあったあのときに固定されているわけではない。― 『恋風』のエンディングは二度変わり、つまり三つの様相がある。この三つのエンディングが異邦人の三つの春と異なることは明白だが、少なくとも彼の、アニメーション『恋風』には二度の春しかないからその意味が単発的で虚無的だという主張は、この文脈で否定される。― 七夏と耕四郎のあいだで交換される言葉が絶えず受信に失敗するとき、あるいは他人が彼らを歓待できなかったとき、『恋風』を貫く砂の城の痕跡が姿を現す。そのすべての痕跡は同じではない。泥水でもあり、七夏の告白でもあり、耕四郎の契約でもあり、しわくちゃになった七夏の手紙でもあり、友人たちが七夏の彼氏について知るのをやめたことでもあり、木に描いた相合傘でもあるそれらすべてが積み重なっていく空間として。したがって『恋風』のエンディングは果てしなく変化する。

『恋風』の内部で、耕四郎と七夏は砂の城の痕跡を克服しているように見える。失敗した告白にもかかわらず二人は恋人同士になり、耕四郎の契約にもかかわらず二人は一緒に暮らすようになった。しかしなお『恋風』は、ある種のコミュニケーションの失敗、すなわち七夏の友人たち、千鳥、そして父との失敗、伝達されないものたち、すなわち相合傘、耕四郎の告白を提示し続ける。そしてもしかすると『恋風』は、まるで克服したように見えた受信失敗が実は克服されていなかったこと、耕四郎が飲んだ泥水は七夏が差し出した泥水とは別のものであること、したがって何も解消されなかったことを書いている。『恋風』は続いていくだろうし、『恋風』のエンディングは果てしなく反復されるだろう。

それでも七夏と耕四郎は、コミュニケーションすることをやめないだろう。失敗した告白を絶えず修正し、新しく書いて送ったように、七夏が兄妹はなぜ愛してはいけないのかと問い、それから「私、あきらめない」と言ったように。これがまた別の受信失敗へつながり、変化した新しいエンディングが始まるとしても、『恋風』は中断されることがない。耕四郎の言葉のように、「謝らなければならない人たちは別にいる」のであり、したがって二人は他の人物たちと関わることもやめないだろう。巧妙で密やかに変化しながらも絶えず呼び出される『恋風』のエンディング・アニメーションこそが、これを保証する。

いまや私は、異邦人と「結末は違うかもしれないが同じ位置に着地」した。『恋風』のエンディングが保証する永続性、耕四郎と七夏が不可能なコミュニケーションに絶えず挑む永続性こそが、異邦人の「生を証明するための英雄的行為」にほかならない。これによって、異邦人が『恋風』のエンディングをスキップしていたことは明白になったようだ。

おわりに ─ 伝染病としての「スキップできなさ」

『恋風』のエンディングは、『恋風』という単一のアニメーションの審級の中でのみ作動するように見える。しかしこの批評がひとつのメタ批評であるという点で、この批評の内部にはこっそり隠れた砂の城の痕跡がある。それは私に読まれた異邦人の文章である。そして私が彼に伝えた、『恋風』のエンディングをスキップするなという命令、届かない命令である。この痕跡は、まるで『恋風』のエンディングが『恋風』の方向へそうしたように、私の中をめぐる。この書かれた批評によって、砂の城の痕跡は私の方向へも伸びてくることになった。

いまや私は、どんなアニメーションのエンディングもスキップできない。私が書いた『恋風』のエンディング批評が、砂の城の痕跡が、別のアニメーションを見る私のところへ来て作動するとき、私はそのアニメーションとエンディングが『恋風』的かもしれないという恐れに包まれる。そしてもしかすると、額縁のもう一方の方向であるオープニングを見るときにも。

そして願わくば、この文章を読む読者の方向へも、

  1. Derrida, J. The Truth in Painting (Geoffrey Bennington & Ian McLeod, Trans.), page 9. University of Chicago Press, Chicago, 1987. 

  2. キム・ホヨン『フレームの修辞学』、39頁。文学トンネ、京畿、2022年。 

  3. 『恋風』のエンディング・アニメーションについて論じるために『恋風』を先に論じるのは少し気恥ずかしい。しかし、そのエンディング・アニメーションが ― 次節で確認することになる ― スキップできないエンディングであるという点で、また『恋風』が ― 少なくとも韓国では ― あまり注目されてこなかった漫画・アニメーションであるという点で、その批評の中に『恋風』の叙述が不可避であることを理解してほしい。そして一方では、まさにその理由によって、この文章は『恋風』の批評でもある。 

  4. 異邦人の『恋風』についての議論は、以下の6本の文章を参照。アクセス日はすべて2024年2月29日。
    異邦人, 연풍(恋風)ㅡ 그 남자의 마음의 자각과 구원, 異邦人のTISTORY, 2016年5月12日. https://earthdreamer.tistory.com/2.
    ───, 연풍(恋風)-나노카의 상징성과 영원한 맹세(1), 異邦人のTISTORY, 2016年6月23日. https://earthdreamer.tistory.com/23.
    ───, 연풍(恋風)-나노카의 상징성과 영원한 맹세(2)-1, 異邦人のTISTORY, 2016年7月2日. https://earthdreamer.tistory.com/25.
    ───, 연풍(恋風)-나노카의 상징성과 영원한 맹세(2)-2, 異邦人のTISTORY, 2016年7月11日. https://earthdreamer.tistory.com/30.
    ───, 만화 연풍(恋風)의 상징성 -벚꽃과 바람을 중심으로-, 異邦人のTISTORY, 2016年11月16日. https://earthdreamer.tistory.com/50.
    ───, 애니 연풍(恋風)과 만화 연풍과의 비교, 異邦人のTISTORY, 2017年1月17日. https://earthdreamer.tistory.com/60

  5. カン・ウソン「パレルゴンの論理:デリダと美術」『英米文学研究会』(14):5-34、2008年。 

  6. あずまきよひこ. あずまきよひこ.com» Blog Archive» よつばとアニメ, web.archive.org, Feb. 23, 2014. https://web.archive.org/web/20140223002337/http://azumakiyohiko.com:80/archives/2008/12/05_093234.php, Accessed: Feb. 29, 2024. 

  7. コンテ・演出:大森貴弘、作画:岸田隆宏 

  8. 七夏の定義は耕四郎によって修正されるが、なお社会規範とは一定程度遊離している。この事実に注目して、アニメーション『恋風』からロリコン・アニメーションが発明されたと見なすこともできる。しかし『恋風』はなおロリコンではなく兄妹の物語であるという点で、純粋なロリコン・アニメーションを構成したとは言えない。これについての議論は文章の主題から離れているため省略する。 

  9. 簡潔なキャラクターデザインをもつ人物たちを描いた日常的な演技作画において、皺の繊細さがどこまで可能なのかは、岸田隆宏が描いたこれらのカットに明白に示されている。