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TVA批評 CRITICISM 2023.10.30

JC、時代精神になる ~ TVアニメ『お兄ちゃんはおしまい!』解題と批評 ~

原文は韓国語であり、本翻訳はChatGPTによるものです。

『新世紀エヴァンゲリオン』のSFメカと萌え、『最終兵器彼女』の戦う美少女がそうであったように、『お兄ちゃんはおしまい!』は私たちの時代の「キモオタ」たちのロマンである。しかし、このおぼろげなロマンを解明しようとするとき、『お兄ちゃんはおしまい!』が生み出す問いは立体的である。これは『お兄ちゃんはおしまい!』が日常系とロリコン・アニメーション、そしてTSFのあいだで絶えず振動しながら作り出すいくつかのイメージが、そのいずれにも拘束されないからである。『お兄ちゃんはおしまい!』は視聴者を絶えず参加させる。同時に、各ジャンルの要素が絡み合いながら、視聴者の内部でロマンは自ずから芽生える。主人公・緒山まひろの反成長的な経路を追いながら、筆者はTVアニメーション『お兄ちゃんはおしまい!』に隠蔽されている時代精神たちを暴いてみたい。

序論

今年の第1四半期に放映されたTVアニメーション『お兄ちゃんはおしまい!』が、その開始と同時に巨大な ― 正体のわからない ― 反響を引き起こしたことは明らかである。エロ漫画の領域でタブー視されていたロリとTSのエロティシズムが大衆の領域へ侵入したためなのか、あるいはその直前に放映を終えた『ぼっち・ざ・ろっく!』や『チェンソーマン』などが作り出した「作画美学ブーム」のおかげかもしれない。しかし日常系の文法からも、日本TSFTrans–Sexual Fictionの文法からも外れている『お兄ちゃんはおしまい!』の話題性と興行は、それ自体として何らかの時代的意味を持っているはずだ。

「非日常」的日常系アニメーションとしての『お兄ちゃんはおしまい!』

日常系漫画やアニメーションには、その登場人物構造の形式にもかかわらず、エロスが完全に去勢されている。美少女たちの空間から男性は完全に排除されており、読者はひとつの視線としてただキャラクターたちの生活を傍観するだけである。ありふれたサービスシーンでさえ、たいていの場合は淡々と描写される。これは永山薫が著書『エロマンガ・スタディーズ』でばらスィーの日常系漫画『苺ましまろ』を「欲望と衝動を止めておいた状態」、「隠蔽され無意識化されたエロス」と表現したように、逆説的に倒錯的な商品として見なければならない1

しかし『お兄ちゃんはおしまい!』では、オープニングの露骨なクロースアップや、水の流れるスク水の描写から明らかなように、セクシュアルな欲望が遠慮なく現れる。そこに第2話、第8話などの長い入浴シーンを加えれば、TVアニメーションにおけるエロティシズムの限界実験であったと言っても過言ではない。日常系アニメーションでも『ひだまりスケッチ』などでは入浴シーンがよく描かれるが、液体に濡れた皮膚のあいだの摩擦や、湯の中での演技作画2にここまでこだわることはなかった。日常系の入浴シーンは、表面上は文字どおり「日常的な入浴行為」の描写にすぎず、明示的なエロスは登場しない。『お兄ちゃんはおしまい!』の乱雑に揺れるリアリズム的な「作画–イメージ」が、アニメーションのエロティシズムをそれ自体として露呈させたのである。

『お兄ちゃんはおしまい!』第1話コンテの一場面。まひろの裸身–イメージは手によって視覚的に断ち切られる。このショットのリアルな作画は、断絶の解消を担っている。

ここで『お兄ちゃんはおしまい!』は日常系ジャンルから逸脱する。しかしこれはジャンルからの脱出ではない。むしろ、ジャンルに隠されていた欲望を開き明かすことである。言い換えれば、日常もの難民たちが読みふけるR-18百合ファンフィックのエロティシズム・イメージが、表層の領域 ― TVアニメーション ― へ運動したのである。すなわち、視聴者である日常もの難民の「非日常」的欲望が日常系アニメーションへ投影されたものが、『お兄ちゃんはおしまい!』なのだ。

ロリコン・アニメーションとしての『お兄ちゃんはおしまい!』

エロ漫画や二次創作で発生した要素が「陽の当たる場所」へ広まることは頻繁にあるが、『お兄ちゃんはおしまい!』で起きたことは ― 『お兄ちゃんはおしまい!』がTVアニメーションであるという点で ― また別の系譜的解釈を必要とする。これは1990年代初頭以降タブー視されてきたロリのエロティックな描写が、大衆にもっとも近いTVアニメーションにどのような方式で登場できたのかと関わる。

美少女系アニメーションとして初めてロリのエロティシズムを描写した『こどものじかん』がそうであったように ― その数は多くないが ― TVロリコン・アニメーションは、子どもと大人の関係を眺望しながら、何らかの理念を込めようとしてきた。『こどものじかん』はその関係の中に現れる大人の少年性と子どもの青年性を告発し3、『今日の5の2』は子どもの成熟を記号的な劇画体を用いて明らかにした。そして『Fate/kaleid liner プリズマ☆イリヤ』に至っては、「ロリ」を大人よりも優れた存在として讃えるようになった。こうした迂回は、子どもを脱がせることへの罪悪感や、大衆から白眼視されることへの恐れによって現れるのだろうか。いずれにせよ、ロリのセクシュアリティを描くTVアニメーションは、その内部から明示的に「快楽装置」から逃げてきた。

一方で『お兄ちゃんはおしまい!』は、女子中学生の裸身を描くことについて、いかなる言い訳もしない。まひろとみはりが上着を脱ぎ、髪を洗い、湯に入り、出てくるシーンは、ただ「見終わった後には何の内容だったか忘れてしまう」日常系の文法の中で描写されただけである。この無意味性は、リアルな演技作画で描かれる露骨なアイキャッチにおいて、さらに極大化される。

『お兄ちゃんはおしまい!』第2話アイキャッチ。本編には登場しない倒錯的な服装をしたまひろの姿が描かれる。

何より、第12話の後半で、まひろが友人との雪合戦を久しぶりだと感じながらロリで残ることを選ぶシーンから、絶対的な教訓を読み取れる視聴者は誰もいないはずだ。その代わりに、「お兄ちゃん改造計画」と意図的にロマン化された「ロリで残ること」のあいだにある特有の間隔だけが、視聴者の意味創造を可能にする。

日常系–TSFと「お兄ちゃん改造計画」

結局、『お兄ちゃんはおしまい!』に対する問いは、そのまま「お兄ちゃん改造計画」へ遡及される。永山薫によれば、「トランスセクシュアルの主体が女性の身体を直接選ぶというケースは非常にまれであり、大部分は暴力や脅迫を通じた強制的な性転換、あるいは[…]欺きによって変化する4」。要するに、ひきこもりを治療するために性転換させることは、普通のTSFでは起こらない。この地点で『お兄ちゃんはおしまい!』は、まるで「生命工学SF」のようにも感じられる。

ひきこもりの問題はしばしばオタクとともに扱われ、さらにはより強く類比され、同一視されることさえある。第1話の後半で描写されるように、天才の妹の兄であるという重圧などによってひきこもりになった「エロゲを愛する孤高の自宅警備員」、主人公・緒山まひろは、それだけ現代を生きる男性キモオタたちが強く憑依できるように設計されている。

一方で、お兄ちゃん改造計画の中のまひろは、各話のタイトルどおりTSFの構造に従う。このとき男性である視聴者の視線は主人公と同一化しながらも、同時に主人公は女性としての体験をする。『お兄ちゃんはおしまい!』は日常系の文法を通じてこの地点を深化させる。『けいおん!』以後、少なくとも2010年代後半、多くの日常系の課題は「読者のバケットリストを一行増やすこと」であった5。『お兄ちゃんはおしまい!』がひきこもりの女の子化を描く文脈もここにある。

「[…]でも、実は今は妙に気分が楽だ。自分が自分の身の丈に合った位置へ戻った感じがする。もういっそ、お兄ちゃんはおしまいにして、このまま……」第1話後半、ひきこもりになるときの自分の姿を回想して語る独白から出発したまひろの堕落(はまり込み)は、日常系的な経路に沿って、ブラジャーを買ったり、長い髪を洗う方法を学んだり、尿を我慢することに苦労したりしながら続いていく6。キモオタ視聴者がこの日常系的な経路の堕落(はまり込み)を追体験するあいだ、「私もロリになりたい」に象徴される『お兄ちゃんはおしまい!』のロマンがようやく発生する(まるで『けいおん!』がそうであったように)。

最終話、みんなと来た温泉旅行の途中、突然「女の子になる薬」の薬効が切れ、まひろは元の姿へ戻りかける。大事を防ぐためにみはりは予備の薬を差し出すが、この薬を飲めばまたしばらくは元の姿に戻れない。大人と子ども、二者択一の状況で、まひろは自らロリとして留まることを選ぶ。それと同時に、ロリとして呼びかけられたまひろが笑いながら友人たちのそばへ走って抱きつくとき、誰からも呼びかけられないひきこもりの大人としてのまひろは徹底的に昇華される。そのクロースアップにおいて、まひろのすぐ上をほのかに照らす光源効果と、3コマと2コマが混じって描かれた繊細な作画がシーン全体をロマン化するとき、昇華の追体験はひきこもりとしての視聴者すらその瞬間消してしまう。雪原の上には、ただ笑って駆け回る子どもたちだけが残る。

『お兄ちゃんはおしまい!』第12話の一場面。

ひきこもりの反成長とロリコン・アニメーション

そうしてまひろは、『お兄ちゃんはおしまい!』の終わりで立派なお兄ちゃんにはならない。むしろ成熟することを自ら拒む。おおにまい駅(逢二妹駅)へ向かう列車の中で、まひろと視聴者は反成長へ向かう。

反成長とは成長の反対語ではなく、自らが「成長物語」になることを拒むことである。どのような形の成長の反対概念も、結局は成長の形而上学を伴うほかない。しかし反成長の中では、成長物語の構造 ― 少年性が一定の努力を通じて記号化された通過儀礼を越え、青年性へ跳躍する ― は解体され、主人公は少年性–青年性の二項対立の体系から、そして大人になることを急かす「成長」という神話から解放される。要するに、子どもと大人が絡み合うTVロリコン・アニメーションこそ、反成長の叙事として読解されなければならない。ロリコン・アニメーションとしての『お兄ちゃんはおしまい!』も、大人になってしまったまひろの「内」と、ロリになってしまったまひろの「外」の二項対立を解体する方式で反成長を描き出す。ひきこもりは「妹のおもちゃ」に象徴される少年性を持っており、ロリはみはりが「お兄ちゃん改造計画は期待以上の成果かな〜」と誇らしげに言ったように、大人らしさを持っている。しかし日常系のジャンル的特性の中で、「お兄ちゃん改造計画」は即時的ではなく、離散的でもない。誰もまひろの成長を急かさない。そこでまひろは、自分でも気づかないうちに改造されていく。

温泉の中で大人になりかけたまひろほどではないにせよ、大人になる瞬間は誰にとっても突然である。何の準備もなく大人になってしまった私たちは、なお少年性を抱えたまま、それぞれの社会の中でさまよい、不安に震える。不安障害をもつ隠遁型のひとりぼっち、ひきこもり青年は、このような文脈の中で発生するのだろう。日常性すら持てない者たちに、不安や苦痛を乗り越えてこそ実存するのだと言いながら外へ出ることを急かすなら、それはただどこかの「老害」のたわごとのように聞こえないだろうか。

反対に『お兄ちゃんはおしまい!』は、私たちの時代のキモオタのロマンとともに、反成長の体験を通じてひきこもり視聴者を懐柔する。要するに、どこへでも引きずられていくだけだったまひろが、自らロリとして残ることを選んだことが「お兄ちゃん改造計画の成功」であったというのは、不安から遠ざかり、日常系の世界に沈み込むことを讃えることである。このような描写は、実存哲学ないし主体モデルが、もはやひきこもりに代表される現代の問題を診断できなくなったことを示唆する。

戦争イデオロギーの向こう側で生まれた疎外された者たちに必要なのは、日常性から抜け出して英雄へ向かおうとする決断ではない。その代わりに、失われた日常性を取り戻そうとする新しい実存哲学、日常性の中に絡み合っている本来的実存の形を掘り出すことが求められなければならない。この仕事はもはや哲学ではなく、むしろ大衆文化の領域で行われており、服を脱ぎ捨てて「ロリ化」する『お兄ちゃんはおしまい!』こそ、同一化された視聴者たちとともにその第一歩を踏み出した。

「俺が、俺たちがまひろちゃんだ」7

結論に代えて

批評 ― 研究ではなく ― の主題となるオタク文化の産物は多様だが、とりわけ「アニメーション批評」は、少なくとも我が国ではたいていの場合「アニメーション映画」に留まっているように見える。つまり、オタク・アニメーション批評ではなく、映画批評としてアニメーション批評は機能している。そのおかげで、『君の名は。』において多彩なショットによる細密な食事描写が注目されるあいだ、走りに生命を吹き込む沖浦啓之のリアル系演技作画や、橋本敬史の見事な爆発エフェクト作画は忘れられてしまった。

近年公開されたいくつかの映画が示すように、我が国における日本アニメーションへの関心は高まっている。動く絵画としてでなくとも、これからは映画批評から独立した、アニメーションの用語を用いた、オタクたちのためのアニメーション批評がより豊かになることを、またそのための空間が形成されることを願う。

  1. 永山薫『エロマンガ・スタディーズ』(ソン・ジョンウ訳)、334-338。AKコミュニケーションズ、2022年。 

  2. 日常系アニメーションキャラクターの演技作画は、少なくとも『ヤマノススメ サードシーズン』以後、ふたたび注目されはじめた。その後『ぼっち・ざ・ろっく!』、『ヤマノススメ Next Summit』、『Do It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-』などでこうした傾向は続き、数は少ないが確かな足跡を残している。その中でも『ぼっち・ざ・ろっく!』と『お兄ちゃんはおしまい!』が記録した興行は、日常系アニメーションの勢力図を変えるほどのものだった。類比にもかかわらず、私は「日常系作画アニメ」が日常系アニメーションの新しい地平になると信じている。 

  3. 『こどものじかん』は賢い。小学校教師と小学生、そして保護者のあいだで描かれる葛藤は、一見エロティックでありながら、同時に社会告発的で教訓的である。これについて筆者は、『こどものじかん』を、成長物語一般が想定している大人–子どもの二分法を解体する作業として読解したことがある。『こどものじかん』がTVアニメーションとしては初めてロリのエロティシズムを描写できた理由である。『こどものじかん』の実験の成功以後に放映されたすべてのロリコン・アニメーションは、『こどものじかん』に一定の負債を負っているだろう。 

  4. 永山薫『エロマンガ・スタディーズ』(ソン・ジョンウ訳)、321-323。AKコミュニケーションズ、2022年。 

  5. 尹恩鎬「2010年代後半の日常系アニメの変化に関する研究」『漫画アニメーション研究』65:97-125、2021年。 

  6. 日本のTSFを完全にクィア的観点から見るのは難しい。TSFにおいて男性と女性は、その性役割が二分法的に分けられており、その叙事としては、性転換した主人公が反対側の性に適応したり「堕落」したりする過程が主に描かれる。 

  7. ひろやまひろし Twitter、https://twitter.com/hiroshi_/status/1690608396394024960。